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Angyali üdvözlet アダムとイヴ/人間の悲劇

ハンガリー映画 (1984)

ハンガリーで最も偉大な文学として知られるイムレ・マダーチ(Imre Madách)の『人間の悲劇(Az ember tragédiája)』(1861)を映画化した作品。ペーター・ボチョ(Péter Bocsor)が主役のアダムを、エスター・ジャログ(Eszter Gyalog)が重要な脇役ルシファーを演じる他、全員が8-12才の子供によって演じられている。そういう意味では、『ダウンタウン物語』が唯一の類似作だが、子供が大人を演じるという点以外に類似性は全くない。この映画で話される言葉は、原作と同じ言葉、150年以上前の文語的、かつ、高度に文学的・詩的な言葉で、それがそのまま、子供によって口にされる。つまり、子供らしさはどこにもない。演じる方も、台詞を覚えるのは大変だったと思う。残念ながら、この映画がつとに有名なのは、冒頭のエデンのシーンで少年と少女の全裸シーンがあるからだが、実際には極めて先鋭的、かつ、高度に抽象化された文学映画である。ただ、先に述べたように、台詞がかなり難しいので、中には台詞を棒読みしたり、演技が下手な子供もいて興をそがれるが、アダム、イヴ、ルシファーの3人は見事だ。なお、この映画の原題は『Angyali üdvözlet』で、英語訳は『The Annunciation』、その直訳は、受胎告知だが、この原作も映画も受胎告知とは一切関係がないので、未公開映画でもあり、誤解を避けるため内容に近い邦題を付けた。

『人間の悲劇』は、天地創造後にエデンの園に置かれたアダムと、新しい創造物である人類の抹殺を目論む大天使ルシファー(後のサタン)の物語。エデンの園では、ルシファーがイヴをそそのかし、知恵の樹の実を食べさせる。そして、神の怒りを買ったアダムは、イヴとともに楽園を追放される。アダムとイヴは、生命の樹の実を食べなかったので、命は短い。神から見捨てられ、苦労と苦痛の短い命に甘んじなければならなくなったアダムは、自らの子孫の将来が気がかりになる。それは、もし未来が明るければ、苦労するだけの価値があると思ったからだ。ルシファーの勧めで(それは、策略でもあるのだが)、長い夢に入るアダム。夢の中で、アダムは、①エジプトの若きファラオとして体制の変革に失敗し、②都市国家アテネの英雄ミルティアデスとして国家への背信で処刑され、③ローマ帝国の酒池肉林の宴に溺れ、④ビザンティウムではガリラヤ公タンクレードとして堕落した狭義のキリスト宗派に深く失望し、⑤プラハでは天文学者ケプラーとして科学の限界に悩み、⑥フランス革命下の政治家ダントンとして英雄になるものの断頭台の露と消え、⑦産業革命期のロンドン(原作では“現代”)では一市民として凡庸な生活を送ることに耐えられず、⑧未来の社会主義的な社会では旅行者として、個人の存在を否定し、芸術を無駄としか考えない共同体に辟易し、⑨最後に見せられた遠い未来では、絶滅寸前の退化した人類に絶望する。自らの子孫の行き着く先を見せられたアダムは、崖から飛び降りて自殺しようとするが、そこにイヴが来て身ごもったことを告げる。アダムは地面に跪き、「主よ、私は打ち砕かれました。降伏致します」「生かすなり殺すなり、お好きにして下さい」と願う。すると神は、「汝人間よ、努力せよ。信仰を持ち、信頼せよ」と声をかけ、アダムとイヴは生きる意欲を取り戻す。解説が長くなったが、非常に長大で複雑なストーリーだ。映画では、この原作のうち、エデンの園、追放されたアダム、そして、アダムの夢の中の②④⑤⑥⑦のシーンと、最後の場面が使われ、①③⑧⑨は削除されている。②④⑤⑥⑦も、すべての台詞が使われているわけではなく、重要な2-4割程度を使用している。なお、訳にあたっては、映画の英語字幕だけでなく、George Szirtesによる『人間の悲劇』の英訳、ならびに、William N. Loewによる『人間の悲劇』の詳しい解説を参考にした。

ペーター・ボチョは11才、難しい台詞が続くにもかかわらず、見事に演じきっている。ただ、舞台劇のようなスタイルでの演出のため、感情の起伏は少なく、表情も単調である。現在42才のペーター・ボチョは、セゲド(Szeged)大学の英文学部の準教授。採用にあたっては、この映画での冒頭の少女との全裸シーンが問題視されたとか。


あらすじ

映画の冒頭、T.S.エリオットの詩 “Burnt Norton” が表示される。大阪市立大学の訳を借りれば、「現在の時も過去の時も、たぶん未来の時の中にあり、また未来の時は過去の時に含まれる。しかし、もしもあらゆる時が常にそこにあるなら、あらゆる時が贖(あがな)えなくなる」。次に、「伝道の書1:9」より、「前(さき)に有りしものは、また後にあるべし」の言葉も表示される。ともに、『人間の悲劇』の内容を知っていれば、非常に含蓄のある言葉であることが分かる。そして、アダムとイヴが登場する。イヴ:「生きているのね」。アダム:「そうだよ、わが妹よ」。「ええ、りりしく 力強いあなた」。「心をくすぐる その言葉」。「あなたの鼻と口から そよ風が」。「主が、魂を与えて下さった」。しゃべっているのは子供だが、内容は大人の詩だ。
  
  

枝に実る果実を見て、摘もうとするイヴ。天使が「主は、エデンの園の果実を食することを、お許しになった。ただし、善と悪の知識の木は除いては」と警告する。その言葉を聞いたイヴは、「怖いわ、あなた」とアダムにすり寄る。アダム:「君の骨が、おののいた小鳥のように震えている」。イヴ:「あなたの瞳の中で、空が暗くなったわ」。「君の瞳の中には 私がいる」。お互いを見つめ合う2人。
  
  

そこに、声がする。「何を怖がっている?」。それは、白い衣をまとった輝くように美しいルシファーだった。「鳥ではない?」「さえずっていたのは、あなたでは?」と近付いて行くアダム。ルシファーは「この木の果実を食べても死なない。賢くなる。神は、お前達を無知にしておきたいのだ」と言って、食べるよう唆す。果実を食べたイヴは、「私は死にます。主は、アダムに新たな妻を与えるでしょう」「でも、この果実を共に食べるよう勧めてみましょう」「死ぬ定めなら、共に死にましょう」「しかし、死なないのであれば、共に生きましょう」と言う。そして、2人で果実を食べる。口に入れた果実を、咀嚼し合う2人。そして、アダムが言う、「もし、あなたが死に連れ去られたら、主がお与えになる どんな女性にも満足できません」「あなたほど優しい人はいないから」。
  
  
  

神は、「アダムよ、お前は私の命を破った」「よって、お前を見捨てる。孤独に生きるがよい」と追放を宣言する。木々にとまった天使達が歌う。「♪一粒の砂の中に世界を見る」「♪一輪の野の花の中に天国を見る」「♪つかみなさい、君の手のひらに無限を」「♪ひとときの中に永遠を」。アダムとイブは、野原へと向かう。さらに、ナレーションが入る。「お前のゆえに、土は呪われるものとなった」「お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ」「お前に対して 土は茨とあざみを生え出でさせる。野の草を食べようとするお前に」「お前は 顔に汗を流してパンを得る。土に返る時まで」「お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」。その間も、2人は歩き続ける。
  

洞穴に身を隠したアダムとイヴ。互いに慈しみ合う。そして、アダムは、「ここは私の場所だ」「広くはないが、ここはわが家だ」「私だけのものだ」「野生の危険な動物から守る」と決意を述べる。一方、イヴは、「賢者が死ぬように、愚者もまた死ぬ」「地上における時は、ただの夢なのね…」と微笑む。
  
  

ルシファーに、「どう思う」と訊かれたアダムは、「神は、私を見捨てた」「身一つで不毛の地に追いやられた」「私も、神を捨てる」と言うものの、「私は、生命の樹の実を食べていない」「短い命が、私を駆り立てる」ので、すべてを教えてくれとルシファーに頼む。ルシファーは、「生きとし生けるものは全て等分の命を持っている」「1世紀であろうと、1日であろうと、同等なのだ」「怖れず、運命に立ち向かうのだ」と言う。アダムは、さらに、「私が何故に苦しみ、何故に戦うのか」と問う。ルシファーは、呪文をかけ、遠い未来まで見せてやると約束する。そして、こう付け加える。「葉が生まれるように人も生まれる。寒風が枯葉を一掃しても、美しい春が戻ってくれば、森には再び新たな葉が宿る。人間だとて同じ。一方が興隆すれば、他方は衰退する」。枯葉に埋もれ、眠りにつくアダムとイヴ。
  
  
  

最初の “未来” は、映画版では、古代ギリシャの都市国家アテネ。アダムは、マラトンの戦い(BC490年)で勝利を収めた将軍ミルティアデス(BC550頃-489)を、イヴは、その妻ヘゲシュピレになっている。ヘゲシュピレが息子キモンに、「そなたの父は、船で遠き地に向かわれ、アテネの自由を脅かす蛮族と戦っておられる」(エーゲ海の中央にあるパロス島)と説明するが、キモンは、「なぜ父上は、このような貧相で臆病な人々を守るため、遠くにお出でになり、母上を悲しませるのですか?」と尋ねる。その人々は、ルシファーの唆しもあり、「アテネは危険にさらされている! 偉大なミルティアデスに見捨てられた!」(2枚目の写真)という不満を口にするようになってきた
  
  

広場で2人の扇動家が言い争っている。「立ち去れ! ここは私の場所だ。私が話さなければ、アテネは荒廃するであろう」。「お前のような輩こそ荒廃の源だ。この雇われ人め」。「お前など誰も雇わんさ。価値がないからな。よいか市民たち、私も辛いのだ。偉大な人物を辱めたくはないからな」。「この悪党め! いけにえを求めんとする、このけだものめ!」。「辛くとも言わねばならん。それは、私が将軍より市民の主権を重んじるからだ」。「この、ゴミをあさる犬のような商人根性のカスめ!」。「市民たちよ、偉大なミルティアデスはアテネを裏切ったのだ!」。これに呼応して、他の市民から、「レムノス島は一撃で奪取したのに、パロス島の攻略は失敗した。買収されたのだ」と声が上がり、多くの市民が「賄賂だ! 彼に死を!」と賛同する。これは、ミルティアデスが、民会で “アテナイ民衆への欺瞞” の罪に問われた史実に対応している。
  
  

そこに、ミルティアデスが重傷を負って帰還する。ルシファーが再び、「今や彼は敵だ。お前達が陰謀を企てているのを知っているぞ」と唆す(1枚目の写真の後方)。市民からは、「彼の妻を捕らえろ」「妻と息子を処刑しろ」との言葉も上がる。ヘゲシュピレは夫ミルティアデスに、「ここは、悪の世界です」「なぜ、犯罪の巣窟を破壊しないのですか?」と問うが、ミルティアデスは無言で刑場へ引かれていった。そして、「息子の目を覆い、わしの血を見せるでない」「わしは、臆病な民を責めぬ。彼らは哀れな奴隷に過ぎぬのだ」「そのような民に自由を与えたわしが馬鹿だった」「その咎を受けるため死刑台に上るのだ」と言い、従容として刑に服する。3枚目の写真は、死刑台が倒れることで、象徴的に死を意味している。
  
  
  

次の “未来” はビザンティウム。しかし、この標記は正しくない。何故かというと、古代ギリシャの植民市ビザンティウム(BC667頃~)は、AD330以降は東ローマの首都コンスタンティノポリスとなるからで(現在のイスタンブール)、アダムが演じるガリラヤ公タンクレード(1076-1112)の時代にはコンスタンティノポリスだった。イヴは、ガリラヤ公の妻ではなく高潔な独身女性イズオラ、ルシファーは騎士の従者として登場する。ガリラヤ公が町に入ると、そこは異様な場所だった。遭遇した狂信者(1枚目の写真・左)に、「信仰を告解せよと」迫られ、「神とキリストは同じ実体か、似た実体か?」と訊かれる。「何のことだ?」と問い返すガリラヤ公を、狂信者は「ならば、異端者か?」と蔑む。従者のルシファーは、「返答はされぬよう。この地では論争になります」と注意する。こうしたガリラヤ公を避ける住民(2枚目の写真)。
  
  

そこに総主教が登場。異様な外見だ。ガリラヤ公は、「我々は聖墳墓の騎士です。旅の疲れを癒したいのですが、誰も受け入れてくれません」「あなたのお力で お助け下さい」と頼む。しかし、総主教は、「今は、そのような些事に係わっている暇はない。異端者を裁かねばならぬ。毒草のように蔓延せぬよう、根絶やしにし、地獄に送らねばならん」「老人と婦人と子供を根絶するのじゃ」と言うばかり。ガリラヤ公は、「愛を語るべき教会が、かくも残忍な怒りを扇動されるとは、忌まわしいことではありませんか?」と反論するが(2枚目の写真)、総主教は、「愛は、肉欲に迎合するのではなく、剣と炎をもって魂を誘うべきである。主も、『私は平和ではなく、剣をもたらすために来た』と言っておられる」「異端者どもは、神とキリストは似た実体などと標榜しておる」。その怒りの先には、磔にされた異端者がいる(3枚目の写真)。
  
  
  

悲鳴をあげて逃げまどう白衣の女性2人を助けようとして、剣で刺されたガリラヤ公。気を失った乙女の清らかな姿に、「肉体から生まれた精霊を、起こして良いものか」と迷う(1枚目の写真)。従者が助けた方の女性は、気付くとすかさずルシファーにキスをする。その時、目を開けた乙女は、「お救い下さり、何とお礼を申し上げれば」。もう一人の女性は従者に、「感謝してますわ。どうお返しすれば?」。ルシファーは、「騎士が独身の婦人を助ければ、従者は侍女を助けるものさ」。一方、ガリラヤ公は、「どこにお連れすればよいのですか?」。乙女:「目の前にある尼僧院の扉まで」。従者:「また、あんな所に入っちゃうのかい?」。侍女:「ええ。でも、鍵は深海の底にある訳じゃないから」(2枚目の写真)。侍女が従者に激しく迫る手前では、騎士と乙女が名前を名乗りあっている。「私はイズオラと申します。あなた様は?」。「私はタンクレードです」。「神のご加護がありますように」。「あなたを愛してはいけないのですか?」。「私とて、どうして忘れられましょう」「でも、もう行かねばなりません」「天国でお会いできましょう」。そう言って、ガリラヤ公にキスをして尼僧院に入って行く。
  
  
  

3番目の “未来” はプラハ。神聖ローマ皇帝ルドルフ2世に仕える天文学者ケプラー(1571-1630)がアダム、金遣いの荒い妻がイヴ。ルシファーはケプラーの弟子ファムルス。ルドルフ2世がケプラーに「余の天宮図を作成せよ」と命じた後、「宮廷で お前の悪い噂を聞く」「奇妙な学説を唱えておるそうじゃな」(楕円軌道の地動説のこと)、そして「お前は 疑われておる… 注意するように」と付け加える。その後、悪妻がケプラーにお金をせびりに来る。体を寄せ、頬を舐めながら、「全部なくなりました。お金が入用です」。「コイン1枚ない。すべて渡したであろう」。「宮廷では、貴婦人方が着飾っておいでです。私は、恥ずかしくて出られません。廷臣の方々が、私に向かって頭を下げ、美しいと褒めて下さるのに。このような卑しい装いでは、恥ずかしいのです」。「私は、下らない天宮図のために わが知識を浪費しておる。すべきことを犠牲にしてまで。これも、すべてそなたを喜ばせるため。だが、国庫は空で、王からの給付は僅かだ。明日いただいたら、そなたに渡そう」。「私のために犠牲をと お責めになりますが、私が 犠牲を払ってないとでも? 名門の出である私が、疑わしいあなたの地位に、私の将来を賭けているのに」。ケプラーは、「私は そなたを非常に愛しておる。もし、私がいない方が幸せになれるのなら、別れてもよいのだが。我々は、法と慣習と教会によって縛られている。死が我々を別つまで、耐えようではないか」(ケプラーの妻は、幸い1611年に死亡する)と悲しそうに言う(2枚目の写真)。
  
  

夜になり、弟子ファムルスに、天気予報と天宮図を作成の準備を命じるが、望遠鏡で妻の不倫現場を見てしまう。廷臣が、肩を舐めながら「私は、長いこと待ちましたぞ、残酷なお方」と言うと、ケプラーの妻は「どんな犠牲を払ったと言うのです? たかが寒い夜でしょう。私が、優しい夫を欺いているというのに」。ケプラー望遠鏡を覗きながら、「ファムルス、ワインを持て。私は寒い。この世は氷のように冷たい。魂を かきたてねば」。偉大なケプラーの哀れな一面だ。
  
  

4番目の “未来” はフランス革命下のパリ。アダムは、革命で活躍した政治家ジョルジュ・ジャック・ダントン(1759-94)として、イヴは、ダントンを拒む貴族の淑女と、ダントンに憧れる人殺しの女の2役で登場する。この幕は、多くの傷付いた兵士に囲まれたダントンが、「平等… 友愛… 自由…」と呟くシーンから始まる。そして、勇敢な若き兵士の命がけの貢献を讃える言葉を重ね、さらに、「我々の手は血に染まり、怪物と呼ばれるだろう。だが、気にはしない。偉大な国家と自由のためだから」と締めくくる。この映画には、抽象的な表現が多いが、この後、アダムが、「君たちはぼろをまとい、素足だが、全員銃剣を持っている」と言いながら、兵士たちの間で体を揺する長いシーン(2枚目の写真)は、兵士たちを鼓舞しているのであろう。
  
  

ルシファーが登場し、「生と死、過去と現在。あやつり人形か無か。糸が切れれば、ただのくず」と述べた後、場面は大きく変わり、若い貴族の姉弟が断頭台に連行されていく。人民から声があがる。「高慢な表情と高価な衣服、罪は明らかだ」。しかし、ダントンは、2人を呼び寄せる。「なぜか、そなた達には心がうずく。救ってやりたい」。しかし、弟は、「もし、私たちが有罪で、あなたが助命すれば、あなたは国を裏切ることになる」「しかし、もし無罪なら、無駄な慈悲は断固拒否する」と貴族の誇りを見せる。そして、「神のお恵みを、姉上」と言って処刑される。姉は、ダントンに対し「弟より無価値なこの首を、切りなさい」「花冠をつけた野獣の犠牲になり、あざけられたくはありません」と頑なだ。「私こそ、犠牲者なのです。虐殺の中で一人悩み、二度と人を愛せないのではと悩みました。この恐ろしい世の中にあって、愛を懐かしく思いませんか? あなたは女性、そして私は男性では?」と告白するダントン。しかし、刑吏の剣がイヴの胸に刺さり、血が白い布を染める。断頭台に消えた多くの命を象徴する “血のプール” の前で、刑吏の苦悩にも同情するダントン(3枚目の写真)。
  
  
  

そこに、先ほどの貴族の女性と同じ顔の、ボロをまとった女性が現れる。ダントンに微笑みながら、「陰謀者の首を持ってきました。あなたを殺そうとしたので、私が殺しました。私のしたことは褒賞に値します。だから、一夜を共にして下さい」と胸に手を入れて誘う。「あなたは男、そして私は若い女。あなたへの賛美から、来たのです」。「この迷いには、耐えられない。何と似通っているのだろう」と悩むダントン。しかし、ここでまた事態は大きく変わり、ダントンが、人民裁判に告発される。「裏切り者を、法廷に告発しよう。国家の金を間違って使い、貴族に同情し、暴君のように行動した」。ここでも、映像は抽象的だ(2枚目の写真)。ダントンは、「諸君は、わが雄弁に注意しろ。冤罪だ」と主張するが、ロベスピエールにより、「蛇のように狡猾な彼の舌を、なぜ閉じさせない」「自由の名のもとに逮捕せよ」と断罪される。
  
  
  

最後の“未来”は、原作では “現代” にあたる19世紀産業革命期終盤のロンドン。紳士階級と労働者階級、そして、そこからはみ出た貧困層の格差は激しい。アダムは、名もない裕福な一市民、イヴは玉の輿をねらう母に連れられた娘。最初に描写されるのは、互いに体を擦り合い、ノミを取り合う貧しい人々。彼らは、公開処刑が楽しみで、席を確保しているのだ。その中に、アダムがいる。「なぜ、一番の場所を占領してやがる」「人生にくたびれた人間だけが、この無料の見世物を見ていいんだ」と追い出されてしまう。
  
  

パブにやってきたアダム。その気楽な雰囲気に、「こんなのを楽しみにしていた」「遠慮なく楽しむことにしよう」。しかし、「みんな飲んで、昨日のことは忘れよう」「明日はどうなるか分からん」と気楽に飲み、カード遊にこうじる人々は、無気力で、ただ生きているに過ぎない。「機械は悪魔の仕業だ。労働者からパンを取り上げる」。「酔っ払ってりゃ、忘れちまうさ」。往来では、「未来がたったの2ファージング。このネズミが運勢を教えてくれるよ」と売り込む商人。ロンドンに対するアダムの印象は悪い。
  
  

アダムは、美しい娘との母子に目を奪われる。過去の記憶が疼くのだ。ルシファーが恋の手助けをする。ジプシーの占い女性を唆したのだ。イヴに寄って行くジプシー。「何てきれいな娘さん。百合のような手を見せて。あんたの運勢見てあげる。男前の婚約者が見える。すぐ近くよ。きれいな子供たち。健康で金持ちになるわよ」。さらに、「嘘じゃないんだから。その人、あんたに恋こがれてるよ。豪邸に住んで、立派なレディになれる」と煽る。アダムは、イヴに「私は、あなたの無比の美しさの虜になりました」と声をかける。そこにルシファーが、「稀少な宝石ですよ」と手際よく登場。それを首にかけてもらったイヴは、「何て美しく素敵なの。みんな私を羨むわ」。にんまりするルシファー。その時、公開処刑の合図が。イヴを含め、全員が一斉に走り出す。そこへ行く途中に、イヴが子供の時から寄っていた聖像(映画では、像ではなく、磔にされた生身のキリスト)があり、イヴは、手に持っていた小さな花束を十字架に載せる。するとたちまち、花はしおれ、イヴの宝石が地面に落ちる。キリストは、「気をつけなさい。そなたは、虚飾を身に着けている」と諌める。そこに押しかけてきた民衆。「奴ら、どこかにいるぞ! 贋金をつかませやがった!」。ルシファーは、「アダム、去ろう。ここに留まるのは愚かなことだ」と叫ぶ。
  
  
  

夢から目覚めたアダム。人類の未来に絶望し、断崖の縁に立つ。「夢だったのか、今も夢の中なのか?」「私は、高い崖の上に立っている。飛び降りれば、茶番は終わりになるだろう」。ルシファーが「終われ。終われ。こんな、たわごと」と呟く。そこに、イヴがやって来る。「アダム、なぜ いなくなったの? 怖いわ」。「どうして、寝てなかったんだ? やりにくくなってしまった」。「話しを聴いたら、やりやすくなるわ。私、あなたの子供を身ごもったの」。それを聞いたアダムは、「主よ、私は打ち砕かれました。降伏致します」「生かすなり殺すなり、お好きにして下さい」と言う。すると、空から、「立つのだ、アダム。落胆するでない。お前に恩寵を授けよう」と神の声が響いた。最後に、「ルシファー、お前に言うことがある。そこに留まれ」と付け加えるのも忘れない。
  
  

アダムは、跪いたまま、神に問い続ける。「主よ、恐ろしい幻視が私を苦しめます」「どのような運命が待ち受けているか教えて下さい」「私の子孫は、踏み車の牛のように回り続けるのでしょうか? 踏み跡から決して外れられない獣のように」「この不確定な地獄から、教え導いてください」。そして今度は、イヴのお腹に顔をすりつけ、わが子に語りかけるように同じ質問をくり返す。すると、天使の歌声が聞こえる。「♪善と悪の自由な選択。何と偉大な啓示でしょう」「♪そして、これから知るでしょう。神の慈悲が盾となることを」。
  
  

岩山の上に、顔を見合うように、全裸で横になったアダムとイヴ。イヴが、「歌の意味が分かるわ」と言うと、アダムも、「私も同感だ。従おうと思う」と言うが、続いて「しかし、わが宿命を忘れられたらいいのに」と本音を漏らす。その時、もう一度 神の声が響く、「汝人間よ、努力せよ。信仰を持ち、信頼せよ」。そして、2人は見つめ合う。
  
  

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